
文化のみち二葉館 って何?そもそも川上定奴さんが誰なのか知らない。メーグルの停留所のひとつだけど、わざわざ立ち寄る価値があるのかもわからない
そんな方も多いと思います
文化のみちは名古屋城から徳川園までの明治から昭和にかけての歴史を残した一帯
二葉館は建設された当時東二葉町にありその豪華さから「二葉御殿」と呼ばれていたことに由来します
ここを文化のみちに移設復元したことから 文化のみち二葉館 となりました
電力王と称された福沢桃介が川上貞奴と暮らすために建てた邸宅で大正から昭和初期にかけて6年間同居していました
川上定奴はNHK大河ドラマ『春の波濤』(1985年に放送)の主人公にもなった波乱万丈の人生を生きた日本の女優第一号で明治時代にアメリカ、ヨーロッパで一大旋風を巻き起こした女性です
大正ロマンの香り漂う 文化のみち二葉館

1階大広間ではパネルやビデオなどで文化のみちの街並みや歴史などを紹介しています
ここは当時の政治家やジャーナリストの集まるサロンとして使われ川上定奴もかいがいしく客人たちをもてなしていたそうです
当時としては珍しい電気をふんだんに活用した和洋折衷の斬新な建物というだけでなく、政治や文化を語り合う場所でもあったようです
和室は国の文化財として登録されました
1階では定奴愛用の品などを紹介しています
川上定奴ってどんなひと?

1871)年9月2日
~ 昭和21(1946)年12月7日
写真でもお分かりいただけるように川上定奴は美貌に恵まれた上に才能豊か、その上、行動力もある女性だったため芸者のときは伊藤博文や西園寺公望などの政財界の大物たちにひいきにされました。
23歳の時にはオッペケペー節(今で言うラップ?)で有名な書生演劇の川上音二郎(1864年 – 1911年)と結婚
その後、川上一座のアメリカ巡業で代役として舞台初デビューをします。当時日本では女性が役者をすることが許されていなかった為、彼女は日本の女優第一号となります
ヨーロッパ巡業、パリ万博(1900年)で大成功をおさめ、その美貌からピカソの絵のモデルになったり、ロダンから彫刻のモデルになって欲しいと頼まれたりしました
ロダンは貞奴に魅了され、彼女の彫刻を彫りたいと申し出たが、彼女はロダンの名声を知らず、時間がないとの理由で断ったという逸話がある。
Wikipediaより
川上音二郎との結婚は莫大な借金や数々のアクシデントに見舞われ乗り越える生活でしたが、彼女にとって充実したものでもありました
川上音二郎が亡くなった数年後、川上定奴は女優を引退し福沢桃介と二葉御殿で同居します
福沢桃介ってもしや福沢諭吉の親戚?

福沢桃介(1868年~ 1938年)
書籍: 福澤桃介式: 比類なき大実業家のメッセージ、 福沢桃介の経営学、 福沢桃介の人間学

福沢桃介は慶應義塾卒業時に福澤諭吉から次女の房と結婚して婿養子となるよう誘われ2年半のアメリカ留学を経て帰国後に房と正式に結婚しました
日露戦争後の好況期に株式投資で財を成し、木曽川の水力開発を主導するなど多数の電力会社を経営。電力業界での活動により「電力王」と呼ばれるようになりました。衆議院議員も務めています。
アメリカ留学前にお互い好意を寄せていた川上定奴と二葉御殿( 文化のみち二葉館 )と呼ばれる邸宅で同居します。福沢 房とは離婚しておらず、福沢諭吉はすでに亡くなった後の事でした
和洋折衷の豪邸

螺旋階段がオシャレです
大正時代にこんな階段見たことない人がほとんどだったのではないでしょうか?

奥のさいころ型の旅行カバンには「CONTINENTAL PARIS」のシールが貼ってあります。ここに舞台衣装などをいれて川上定奴は川上一座と共にアメリカやヨーロッパを巡業しました

2階の和室です
玄関でスリッパに履き替えての見学なのでうっかり廊下に脱いだスリッパが写り込んでしまいました
大きなガラス戸から障子を通して明るく優しい光が入りとても落ち着く空間です
2階にはベランダ、旧支那室、旧(浴室、洗面所、化粧室)、旧寝室、旧書斎、旧婦人室、旧仏間などの部屋があり、郷土ゆかりの坪内逍遥などの文学作品を紹介しています。
手に取って読むことができるものもあるので文学の世界に浸ってみるのもいいでしょう
文化のみち二葉館 のまとめ
以上のように 文化のみち二葉館 は波瀾万丈の人生を過ごした川上定奴の一時期を過ごした愛と時代背景を感じられる邸宅です
文化のみち二葉館 の周辺には文化のみち撞木館、文化のみち百花百草、旧豊田佐助邸、旧春田佐助邸、他にも大正時代に建てられた邸宅が並び「町並み保存地区」となっています
歴史にさほど興味がなくともこの一帯を散策するだけでも「インスタ映えする」写真を撮れること間違いなしですね
名古屋駅からメーグルに乗ると 文化のみち二葉館 まで迷子にならずに行けますよ